未完成交響曲について

 この映画も小学生の頃、テレビの名作劇場で見た印象深い映画である。映画の内容を改めて紹介しながら、私の思い出と感想を述べたい。
 この映画はシューベルトの青春と恋を描いた創作の伝記映画である。
貧しい音楽家の主人公は、小学校の教師をしながら、音楽の勉強を続けていた。下宿の家賃も十分に払えない日々であったが、彼に思いを寄せる質屋の娘が援助してくれていたのである。ある日、知人の紹介で貴族の夜会の音楽会で演奏をする機会を得た。音楽家として上流階級に名前を売り込む絶好のチャンスであった。
ハンガリー出身の女優で歌手のマルタ・エゲルトが、自由奔放で快活な伯爵令嬢の役を演じているのだが、この演奏会に遅刻してきて、無造作に席に座るなり、その化粧手鏡を取り出して化粧直しをする。しかし、その手鏡はあまりの量の白粉に覆われていて下が見えない、それを乱暴にふっと息を吹きかけてその白粉を一度に吹き飛ばすのだった。吹き飛ばされた白粉の下から彼女の顔が現れる。この当時の映画としては斬新な画面カットである。演奏が進むうちに、シューベルトの燕尾服から紐につるされた大きな質札がずり落ちてきたのを見て、甲高い声で大笑いしたのである。シューベルトは、その笑い声が自分の演奏を侮辱したものだと憤慨して、演奏を中断してその場を立ち去るのであった。
貧しいシューベルトは、質屋から燕尾服を調達したのだが、質札を外すのを忘れていたのである。この時、ピアノで演奏していたのは、未完成交響曲の初めの部分であった。彼は演奏しながら、次の未完の楽章のインスピレーションが沸き起こったのだが、ちょうどその時にこの笑い声でその着想は中断されてしまった。
その後、彼は作曲の続きを試みるのであるが、そのたびにあの彼女の甲高い笑い声が脳裏に浮かんできて中断されてしまい、その先を進めることができなかった。
これがこの映画における未完成交響曲が未完成のままとされた解釈であるが、なかなか面白い創作逸話である。
 後日、彼女の父親の伯爵の屋敷に音楽の家庭教師として招かれることになる。
シューベルトは彼女が音楽のまったくの初心者だと思い、音楽の基礎的なことから講義を始める。この時のマルタ・エゲルトの茶化したしぐさが傑作である。あたかも、初めて教育を受ける素人のごとく、大きく眼を見開いて、大げさにうなずきながら感心した様子で講義に聞き入って、メトロノームの説明では、その動きに合わせて、おどけて首を左右に振って見せる。それから、目を伏せて、いたずらっぽく微かに含み笑いをしたかとおもうと、突如として美しい歌声で歌いだして、顔をゆっくりと持ち上げるのであった。それはシューベルトの「セレナーデ」である。いきなり歌いだして驚かすことで、彼女の歌声はより強く印象的にそして感動的に私の心に響いた。シューベルトは感激して、椅子から立ち上がって叫ぶ:「あなたには、教えることは何もありません」。
この映画を見たときに少年であった私は、このマルタ・エゲルトが演ずる伯爵令嬢の大人の女性の魅力にすっかり魅了されてしまったのだった。天真爛漫、自由奔放、男をからかう小悪魔的な魅力ある大人の女性である。
この突如として歌いだした場面は、自分にとって生涯、忘れ得ぬ思い出である。
今でも、シューベルトのセレナーデを聴くたびに、この場面を思い出す。マルタ・エゲルトがシューベルトを音楽の家庭教師として招いたのは、あの夜の演奏会での非礼を詫びるためであった。音楽の授業の最中にいきなり歌いだしたのは、自分の非礼に対するお詫びの気持ちと共に、自分がいかに音楽を愛して理解しているかシューベルトに判って欲しいいという女心からではないかと思う。
その後、二人は音楽を通じて恋に落ちるのである。しかし、伯爵に身分違いの結婚を反対され、結局、彼女は伯爵家が定めた貴族の許嫁に嫁ぐことになる。シューベルトの恋は悲恋に終わるのである。
この映画はシューベルトの音楽伝記映画であるが、欧州初のミュージカルとして大変よくできていると思う。各場面で挿入される音楽の選択が優れており、話とよく溶け合って物語を効果的に盛り上げている。例を挙げると、シューベルトが小学校の教師として算数の授業をしている最中にインスピレーションが沸いて、黒板に書いていた数式を音符に書き替えてしまう。それを見て生徒たちが歌い始める。それが「野ばら」である。この曲を導入する演出のセンスの良さには脱帽である。この映画ではウィーン少年合唱団が生徒役で歌うのであるがまことに美しい歌声である。それから、伯爵の屋敷を訪れてから、二人で村の祭りを訪れた際に、ハンガリーの民族衣装を身にまとったマルタ・エゲルトが村の居酒屋で彼の前に現れて、チゴイネルワイゼンのメロディーによる「妾に告げよ」を歌って踊る場面も忘れ難い。歌い終わって居酒屋を出て行ったマルタ・エゲルトの後をシューベルトが追いかけて行って、明るい日差しの中、風で波打つ広大な麦畑の中で二人は激しく抱擁するのである。その他、映画の中では「菩提樹」や「アベ・マリア」等多くのシューベルトの曲が挿入されている。
 この映画を初めて見てから、既に半世紀以上の時間が経過している。しかし、振り返ってみると、自分が印象を受けた画面の詳細を、今でも的確に思い出せるとは、我ながら驚くべきことである。そして、映画の中で効果的に挿入される音楽が、どれほど人を感動させて生涯の思い出を与えるものであるか改めて考えさせられた。
1933年 オーストリア映画
脚本・監督:ウイリー・フォルスト
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン少年合唱団

平成28年9月14日 山本 毅