トポロジーと心理学

トポロジーとは
 天秤が量るのは重さだけではない。生前の悪行(十王讃歎鈔(じゅうおうさんたんしょう)、死者の書)、正と邪(女神テミス)、魔女の資質(魔女裁判)もはかるのである。いつの日か、我々は閻魔大王によって自分たちの罪を裁かれる。そのとき使われる道具、罪の重さをはかる仕掛け、これが七つの罪状天秤である。天秤は、長い時間を経て、その概念が一般化され、重さ以外の事物事象も量る手段として利用されるようになったのである。
 分析化学の世界にはこのような話があるが、数学の世界もしかりと言える。線形空間からヒルベルト空間へと、空間を公理的方法によって進化させると、我々は現実の三次元空間の位置を測るだけでなく、関数のような抽象的な要素を空間の点として測ることができるようになる。関数の集合、これだけではどのような性質を持った集まりなのかは想像もできないのに、それが座標軸を持っていて、関数と関数のあいだの距離が測れることはまさに驚嘆である。
 科学者は目の前の自然を相手にするが、数学者にとっては、宇宙は頭脳の働きに淵源し、神羅万象は数学という礎石の上に建立された伽藍である。そのため、彼らが自然に対しては不遜であることは無理からぬことであり、完全な理想主義者であることも首肯できる。「現代数学の父」と呼ばれるD. Hilbertは、数学の体系は完全で無矛盾であるから、空間に新しい概念をつぎつぎと定義・導入していくと、人間の知識は無限に広がると信じていたようであり、これはヒルベルトプログラムとして知られている。言わば、人間の髪の毛一本が落ちることも予測し得ると考えたのである。しかしながら、必ずしもそうはならないことが、K. Gödelによって不完全性定理として証明された。
 これとはまったく逆方向の道も提案された。それは原点回帰であり、空間論をさらに高度に発展させるのではなく、空間論からもっとも根本的で単純な概念を抽象するのである。抽象された根本的概念から出発すれば、既成の空間論をより明瞭に説明できるだけではなく、これまでにない新しい空間も創造できるかもしれない。実際、この考えは正しかった。そして、この新しい思想のもとに発見された空間の根本概念はトポロジー(topology、位相)と命名された。数学では、集合の要素を空間の点と呼ぶので、ギリシャ語で場所を意味するtoposと学問を意味するlogyを組み合わせた言葉であるトポロジーは、集合論を基礎として空間論を組み立てる学問を表す言葉として、まことに的を射た造語である。トポロジーは空間の点と点との関係を「はかる」天秤である。
 空間論では、極限や連続性が中心的な役目を果たす。そして、極限や連続性の導入を可能にするような空間のもっとも単純な構造がトポロジーである。一次元Euclid空間(数直線)には、距離、部分集合、補集合、近傍、集積点、孤立点、開集合、閉集合など多くの基本的な概念があるが、実は、トポロジーとは開集合のことである。
 距離はトポロジーにある意味で似ている。その概念なしでは、現実の世界は成り立たないくらい、距離は根本的であり必須である。人の移動には距離が直接関係し、視覚、聴覚、嗅覚も距離を考慮して対象物を認識し、ほとんど全ての物理法則は距離空間で定義されている。距離とは、それほど重要であるため、空間には距離という性質が本来的に備わっていると思っている人は多いかもしれない。しかし、立ち止まって考えてみれば、集合の要素と距離は空間での立ち位置が違うことに気がつくはずだ。集合の要素は一つ一つ別々に取り上げることができるが、距離は二つの要素間の関係である。同様に、トポロジーとは、空間の点と点とを規定する定義であり、空間の点の定義とは別に与えられるものである。
 最初に、要素を集めて集合を作る。次に、トポロジーを決める。これで位相空間ができあがる。

位相幾何学とトポロジー心理学
 要素と位相(トポロジー)を定義して作成した位相空間があまりにも抽象的すぎると、実質的な議論ができない。そこで、空間の異なる点を区別するための条件(分離公理)を設定した位相空間、ハウスドルフ空間という、ここから出発するのが一法であり、その延長線上には位相幾何学がある。例として、クラインの壺は実に奇妙で巧妙な曲面を描出する。蓋をしたやかんの注ぎ口の首を伸ばして、その先端を胴の外側に接着してみよう。首の付け根から首の外表面を先の方へと、指先を這わせていくと、接着部を過ぎ、胴の外表面を進むことになる。これは何でもない曲面であるので、今度は、注ぎ口の首を伸ばして、その先端を胴の内表面に接着してみる。これは三次元空間では胴を貫かないと実現できないが、四次元空間ではそうしなくても「実現」できる。同様に、首の付け根の外表面から進んでいくと、今度は胴の内側に到達する。そこで、首の付け根まで内側を移動し、首の内表面をさらに進んでいくと、注ぎ口の先端から胴の外側に出るので、そのまま進めば、出発地点に戻ることができる。物理的な三次元空間に生きている人間にはまったく想像もできない曲面が創造されたのは、現実的な空間の概念に依らないで、抽象的なトポロジーから幾何学を組み立てた成果である。
 K. Lewinは「社会心理学の父」と呼ばれ、トポロジー心理学を提唱したことでも知られている。彼の主張に、B = f(P, E)がある。ここで、Bはヒトの思考の結果としての行動であり、Pはヒト、Eは環境である。関数fは、思考に基づくヒトの行動はヒト自体と環境に依存して決定されることを示している。彼はヒトのある瞬間における行動を決定する要因のすべてを含む集合を心理学的空間(psychological life space)と命名し、この空間の部分集合(平面上の有限な領域)を利用して、健常者と精神遅滞者との行動や思考過程の違い、知能の発達の様子、簡単な算術演算をするときの思考のプロセスなどをトポロジー心理学的に説明した。
 著書Principles of Topological Psychology(1936)の中で、Lewinは心理学にトポロジーを導入した経緯を次のように述べている(逐語訳ではない)「トポロジーはまだ黎明期であるが、心理学を科学の一分野に昇格させるために役立つと直観した」(序文)。その根拠は次である。「点と近傍を基礎として定義されている位相空間は、距離の概念なしで、関数などの数学的な問題を扱っている。心理学的空間においても、距離は定義されない。なぜならば、Euclid空間(物理空間)の距離と心理学的空間の距離は適合しないからである。距離だけではなく、方向も位相空間には含まれない。心理学的空間においては、距離と同様に、方向も定義するのは困難である」(pp. 53-36)Lewinは心理学的空間に距離と方向を定義するのは妥当ではない考え、Euclid空間ではなく、位相空間を心理学的空間の数学モデルとして採用したのである。彼がとくに着目したのは、位相空間の幾何学的な側面であった。一方、彼は次のようにも述べている。「心理学的空間の領域が開集合であるか閉集合であるかの議論の重要性は低い」(pp. 105)彼は位相空間から空間論のもっとも根本的な概念を抽象することはしなかったのである。
 抽象と捨象は表裏一体の関係にあり、行為は同じでも目的が異なるときに、分けて使われる。これは日本語の語法であり、対応する英語はabstract(remove something from somewhere)があるだけで、こちらは目的には言及していない。本質的なものが抜き取られるという説話を紹介しよう。昔、西洋のある田舎町に、たいへんな美声の持ち主であったベルという若者が住んでいた。その美声のため、また、ヘラクレスのような美しい姿と容に恵まれたという幸運によって、彼は教会で信者のために讃美歌を歌うことが多かった。彼の主人である青年貴族は体を鍛えることが大好きであったが、ベル君を妬ましく思っていた。ベル君と一緒に筋トレをしていたとき、その際中に歌っていたベル君を煩わしく思った青年貴族は、ベル君の舌を抜かせてしまった。それ以来、ベル君はだんまりとなり、「だんまりベル」君、略して「だんベル」君と呼ばれるようになった。「だんまりベル」を漢字で書くと「唖鈴」(最近では亜鈴と書く)であるため、「ダンベル」を「アレイ」というのである。話は変わり、F. Hausdorffは位相空間論の発展に最も貢献した数学者の一人であり、彼の名はハウスドルフ空間として残っている。彼は多芸多才な人物であり、集合論に関する有名な著作を遺した他に、小説、詩、戯曲、哲学研究書を出版し、天文学や作曲も勉強したが、その活動は彼が73歳のときに突然終わった。ユダヤ人強制収容所への収監が決まると、彼は妻と妹と共に自殺したからである。数学体系から本質を抽象した研究者が、当時の学界の本質であった自分自身を社会から捨象したことは、歴史的な悲劇である。

付録:開集合とトポロジー
 関数の連続性を、距離ではなく、開集合によって定義することにより、トポロジーの直接的な把握が得られるだろう。位相空間の回りに張りめぐらされている頑強な埒にあいた隙間、集合から取り去られた境界の跡である、ここを通して、空間のクインテッセンスが散見できる。
 関数f(x)が連続であるという意味は、xの値が少し変化しただけならば、f(x)の変化もわずかであるということであり、これは
「f(x)がx = aで連続であるとは、xがaに限りなく近づいたとき、f(x)がf(a)に近づくことである」
と表現できる。しかし、「近づく」という意味が数値ではないため、曖昧さがある。そこで、次の定義(いわゆる、ϵ-δ式)がより実質的である。
「f(x)がx = aで連続であれば、任意のϵ > 0に対して、適当にδ > 0をとれば、
|x – a| < δ ならば|f(x) – f(a)| < ϵ
が成立する」。
ここで、「任意」と「適当」の違いに注意する必要がある。f(x)が連続関数であれば、f(x)はf(a)に好きなだけ(任意に)近づけることが出来なければならない。そのためには、距離(|x – a|)を何かしらの値に(適当に)設定すればよいのである。
 点Yの近傍とは、Yを含む開集合である。位相空間における関数の連続性の定義は、
「関数fが点aにおいて連続であるというのは、f(a)の任意の近傍Wに対して、適当なaの近傍Vが存在して、f(V)がWに含まれることである」
である。関数fは一点xをf(x)の値に変換するだけでなく、開集合Vの各点を個々に変換し、全部で開集合f(V)を生成すると考える。ϵ-δ式とは異なり、位相空間には距離の概念がないため、集合VとWを数値的に評価することはできないが、Vにはxとaが含まれ、Wにはf(x)とf(a)が含まれていると考えると、位相空間の定義とϵ-δ式を同じように考えることができる。つまり、Wは任意であるから、Wをいくらでも「小さい」集合にできるので、f(x)とf(a)をいくらでも「近づける」ことができるのである。もちろん、「」で囲んだ言葉は、位相的ではない。
 開集合に基づく極限は、アキレスと亀の話に例えられる。アキレスが亀を後ろから追いかけている場面では、少し前の時間に亀がいた地点にアキレスが到達したときには、亀はその位置より少し前に進んでいるので、アキレスはいつまでたっても亀に追いつくことができない。アキレスがいつか追いつくかもしれない仮想的な位置をx0とすれば、アキレスと亀の位置すべてを含む集合は、点x0を含んでいないことになる。x0はこの集合の外にある境界である。境界を含んでない集合は開集合であり、境界を含んでいる集合が閉集合であるから、アキレスと亀の集合は開集合である。上の関数の連続性の定義には「限りなく近づく」とあり、この意味で極限を考えるときには、閉集合ではなく、開集合を基礎にする必要がある。つまり、アキレスは亀に限りなく近づくが、追いついてはいけないのである。トポロジーは開集合でなくてはいけない。

林 譲 2017/05/14